2009年6月2日火曜日

ピナコテカ・レコード(16) 





はじめに
1980年、吉祥寺の裏通りの雑居ビル3階にあった、ライブハウス「マイナー」を知っている人はどの位いるのでしょうか?
「マイナー」の店長、Sさんを知っている人はどの位いるのでしょうか?
「マイナー」に興味を持つ人はどの位いるのでしょうか?

この文章は、1980年当時、あるミニコミ誌のため、Sさんにインタビューした方から、結局未発表になってしまった原稿を提供していただいたものです。
Sさんとは連絡の取りようもないのですが、もし、これをご覧になって問題があったり、逆に「もっとはっきり名前を出してくれ」とか「写真を載せてくれ」というようなご要望があれば、削除・修正させていただきたいと思っています。


特別寄稿「マイナーの誕生から崩壊まで」(店長Sさんへのインタビューより)

●話は〇〇年前、S・・が受験のために上京した所から始まる。
ほとんど予備校にも行かずゴロゴロする毎日。
ある日「普通のスナックで」川田良と知り合う。
「まだ、良がジェフ・ベックのコピーかなんかやってて…昔からいばってたよ。
酔っぱらうとやたら人に…いや、弱そうな人にケンカふっかけて」
「良はそれから合唱団に入ったり…働く青年とかの。第九とか歌ってた」
● 同じ頃、山下洋輔にショックを受け、ピアノを弾き始める。
「あれなら出来そうだと思って」
● 桜台のジャズ喫茶で、バイト仲間の現在の奥さん、Tさんと知り合う。
合唱団をやめた良と共に、いろいろなバイトを渡り歩く。が、元々働くのはキライな方だ。
遅刻ばかりですぐクビになる。自分で何かやるしかない。
『ジャズ喫茶』が脳裏をよぎる。
「ヒマじゃない。楽じゃない。人が来なくて」
渋谷がいい。新宿でもいい。と、捜しているうち、吉祥寺まで辿り着いてしまった。

● アルティックのスピーカーが主役。
木の椅子とテーブル。
そして、花。
明るく清潔なジャズ喫茶、『マイナー』が誕生する。
晩年のマイナーからは想像不可能。
二年前の春のことだ。
● 月に一回ライブをやろう。
最初に呼んだのは外タレだった。えらい赤字。
そのあとは…
「有名な人は…ほとんどなかったよね。
昔から。
有名な人に対してひがみがあるのね。
悔しいじゃない」
「写真載せてね」
はい、載せます。
● 何でも受け入れてしまう店主の優しさを嗅ぎ付けてか、マイナーは、徐々に、図々しい人間の溜まり場と化していく。
毎晩閉店後が常連達のセッションタイム。
白石民夫が機材を持ち込み、信じられないような音量でシンセを弾く。
楽器に触ったこともないような人達が、ムチャクチャな音を出す。
図々しい客達の持ち込んだレコードは、ロックだろうと何だろうと喜んで掛ける。
アルバイトのジュネがジャーマンロック好きだったので、それも掛ける。
ジャズ喫茶に来てるつもりのまともな客達は、驚いて二度と来なくなる。
『ジャズ喫茶マイナー』の崩壊。
そして、マイナーのロックの歴史が始まる。

● 『ワーストノイズ』というバンド。
鳥居ガクが中心になって始まったらしい。
「で、(川田)良とかジュネが入ってて、良が(工藤)冬里を連れてきて、(大村)礼子が入って、僕がドラムで入って、あと、白石(民夫)さんとか、角谷(美智夫)とかも入ってた」
「ジュネあたりが好きだったジャーマンロックみたいになったり、冬里がラリーズ好きだったからあんな風になったり…」
メンバーが出たり入ったり。
ジュネは『マリア』を作り、良は『セックス』を作り、冬里と礼子だけになって、このバンドは『ノイズ』になった。
まだ、活動の場がなかった良の企画、『ラジカル・パワー・ポップ』が、月1回程行われるようになる。
●そこへ『海賊艇K』が乗り込んでくる。
「1年半位前かな?モリ君から突然電話があってね。場所探してるって」
「吉祥寺って田舎だけど大丈夫かとか、なんか長々と」
『海賊艇K』に触発されて、自主企画が活発に行われるようになった。
「自主コンサートとか、チラシ作りとか、簡単だって判ったんだね」
新しいバンドが生まれては消えていく。
「そういうの、すごくいいと思う。
第1に、新しいのが面白いのね。ヘタでも。
それに他ではみっともなくても、『マイナー』ならいいや、みたいなのがいい所だったと思うから」
「どっか危険な感じがあるものが面白かった。
でも、面白いものほど大変だったのね。苦情がすごくて」
● 毎日、地獄のような苦情。
2階のパブの人が怒鳴り込む。
地下の何やら怪しげなクラブの、ヤクザ風の男に呼び出され、狭い更衣室に連れ込まれて、延々と説教される。
「最初は殴られるかと思った」
音がどうのこうのというより、違う人種、変わった人間が出入りするのが気にくわなかったらしい。
理不尽、と言ったところで理屈の通る相手でもない。
ビル中の掃除をさせられ、お世辞ばかりの防音をほどこしても、毎日怒鳴り込んでくる。
せっぱ詰まって、1980年10月28日、マイナーはあっさりつぶれてしまった。
店を作った本人すら全く思い及ばなかったほど、ストリートロッカー達の拠点となっていたマイナーが。

●高円寺でSさんにいろいろお話を伺った。
奥さんのTさんもご一緒だった。
TVマンガ『ペリーヌ物語』が好きだという彼女は、その主人公に似て、髪の長い、少女のような人だ。(付録が欲しくて、つい『りぼん』を買ってしまうそうだ。)
Sさんは、知らない人には、学校の先生に見えるかもしれない。
マイナーをやめて還ってきたお金で、レコード会社を始めるそうだ。
1年で20枚出す。と豪語している。
だが、まだ、予算が全然立っていないらしい。
Sさんらしい話だ。
いつでも、ふわっと生きている。
社会的な事、政治的な話には全然興味ないし眠くなるという。
新聞も読まない。
でも、東京は離れられない。
オモシロイもの、オモシロイ情報を、見たい、知りたい。
これが世にも無節操なフリースペース『マイナー』の正体だったのかもしれない。

(画像、文章ともにTOKYO 1980より引用。)

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