2011年12月10日土曜日

(本)聖アントワーヌの誘惑 (第一集)













オリジナルリトグラフ10点+表紙
(M.83-93 完全セット)
Ed:(60) 145.2×31.5cm 1888年 
フロベールによる仏語テキスト入り

フローベール 聖アントワーヌの誘惑 ルドンのオリジナルリトグラフ22葉入 限定185部



「フローベール 聖アントワーヌの誘惑 ルドンのオリジナルリトグラフ22葉入 限定185部」
  
「La Tentation de Saint Antoine」Gustave Flaubert

ギュスターヴ・フローベール(1821-1880)の主要作品のひとつで、オディロン・ルドンの挿図で有名なものです.
岡鹿之助旧蔵(ルドンに強く影響を受け、著作での言及も多い)という筋の良いもの
全体でもわずか限定220部の本 うちの185部本のもの アンブロワーズ・ヴォラール版
扉には1938年、最後の頁には1933年の年記があります.
フランス語206頁 ルドンのオリジナル・リトグラフ22図 他にテキスト中のカットは木版14図
この本はルドン(1840-1916)の没後に刊行されたものだが、リトグラフは生前の1896年に制作、
ヴォラールにより限定50部で刊行された連作版画「聖アントワーヌの誘惑 第三集」と同じものが使われています.
リトグラフを刷ったのも1896年かその頃と推定されます(リトグラフの版を長期間保存しておくのはその時代不可能なので)
奥付でもクリスティーズのカタログでもオリジナル・リトグラフと表記されています.
(因みに限定50部の方は版上サインがあります 市場に出ているのはこの本をバラした版上サインのないものが殆どです.)
木版画が制作されたのは1910年頃ですが、時を経てヴォラール(1866-1939)の死の直前の1938年、ようやく市場に出された本です.    
装幀は「J.Anthoine Legrain」J.アントワーヌ・ルグラン 黒の革装幀
見返しも濃い葡萄酒色の木目シルクとベージュに金の模様の二重で美しい
革と薄い板で作られた帙に挟まれており、箱入 三方金の本 ずしりと重たい  
本の大きさ45×34.5センチ 箱に傷みがあり角が少し割れかけている、帙に汚れ、少しシミが出ている頁がありますが全体としては良い状態と言えるものです.
  
クリスティーズのオークション落札データは、1976年の装幀で、33300ドル
リトグラフのみ、本からバラして売られている場合は、1枚20万以上の値が付けられていました.

2011年12月9日金曜日

美術 : FLUXUS & HAPPENING FRIENDS | LE LIEU




FLUXUS & HAPPENING FRIENDS | LE LIEU

Eric Andersen, Denis Belley, Laurence Boudreau, Charles Dreyfus, Felipe Ehrenberg, Bartolome Ferrando, Esther Ferrer, Giovanni Fontana, Dick Higgins, Arnaud Labelle-Rojoux, Jean-Jacques Lebel, Larry Miller, Nadia Morin, Alain-Martin Richard, 霜田誠二, Yohann St-Amour

1998年10月、カナダのケベック・シティで開かれたコンサート『Fluxus & Happening Friends』を収録。 1960年代フルクサス作家による33のイヴェントを収録。収録イベントは、Ay-O, George Brecht, Al Hansen, Geoffrey Hendricks, Dick Higgins, Joe Jones, Allan Kaprow, Alison Knowles, 小杉武久, Georges Maciunas, Jackson Mac Low, Larry Miller, オノ・ヨーコ, Nam June Paik, Ben Patterson, Willem de Ridder, Tomas Schmit, 塩見允枝子, Ben Vautier, Robert Watts, Emmett Williams。 PAL方式、パソコンで再生可能

2011年12月4日日曜日

美術 : Remedios Varo (1908-1963)




スペイン(カタロニア、Anglés Cataluña)に父ドン・ロドリゴ・バロ・セハルバと母ドウニャ・イグラシア・ウランガ・ベルガレーチェの間に3人兄弟の第2子、唯一の女児として生まれた。父ロドリゴは建設業者で仕事の関係上、スペイン全土、北アフリカにまで家族と共に赴いた。父は子供たちにリベラルな教育を受けさせたかったが、母の希望で中流家庭の子弟が学ぶカトリック系の学校に学んだ。カトリックの社会的・宗教的価値を詰め込まれる厳しい学校生活はバロにとって苦痛であり、冒険物語や旅行記、神秘主義や東洋思想に魅せられたと述懐している。父は彼女に絵の才能を認め、バロは15歳の時、サン・フェルナンド美術学校に入学する。同時期にサルバドール・ダリも就学していたこの美術学校は、完全主義の訓練で知られており、バロはここで絵画の基礎技術をたたきこまれた。1930年に美術学校の同級生であるヘラルド・リサラーガと初めの結婚をし、スペイン内戦を逃れてパリに移る。そこでのシュルレアリスム運動に大きく影響された。1936年頃、バルセロナにて、フランスのシュルレアリスムの詩人、ベンジャマン・ペレ(en:Benjamin Péret)に出会い、リサラーガと婚姻関係にあるにもかかわらず、1937年に彼とともにパリに行き、内縁の妻となる。1940年にパリに進軍したドイツのナチによるシュルレアリストへの迫害を逃れて、1941年暮れにメキシコにペレとともに移住。当初メキシコは、一時的な逃亡先のつもりであったが、結局その地で生涯を閉じた。一人でパリに戻ったベンジャマン・ペレとは別れることになった。メキシコでの後半生で、バロはワルター・グルーン(Walter Gruen)という男性と強いつながりを持つようになる。彼は強制収容所に耐えた後にヨーロッパを脱出したオーストリア人で、バロの才能を信じていて、バロが絵画に専心できるよう援助し、結局バロは彼と最後となる結婚をしている。

メキシコでは、フリーダ・カーロ、ディエゴ・リベラといった現地の美術家たちと知り合った。しかし、バロがもっとも親しくしていたのは同じ境遇の亡命者・国外追放者たちで、とくにイギリス人女流画家レオノーラ・カリントン(en:Leonora Carrington)と仲が良かった。

1949年以後、バロはそのスタイルを成熟させ、独特なものに発展させた。それは美しく謎めいて、即座にバロのものとわかるスタイルだった。しばしばバロは自ら加工したメイソナイト板に油で絵を描いた。バロの色は、油絵具の混合の跡を残してはいたものの、卵テンペラを思わせる、完璧な筆さばきで綿密に線を重ねるテクニックを用いることが多かった。しかし、絶頂の極みでバロはこの世を去った。一部では自殺を疑われたが、死亡前の様子から心臓発作によるものとされた。

メキシコやアメリカ合衆国の主たる場所で開かれたバロの回顧展は成功を収め続けている。