2009年5月27日水曜日

書籍 : 清水俊彦






清水先生のこと
もうご存知の方も多いと思いますが、評論家の清水俊彦さんが5月21日に亡くなりました。『ジャズ・オルタナティヴ』『ジャズ・アヴァンギャルド』『ジャズ・ノート』…先生(僕等は心からの敬意を込めてそう呼んでいました)の書かれた著作から、わたしは本当に多くのことを学んできました。ご高齢でこの10年間はペンをとることもなかったので、ここを読んでいる若い世代の人にはほとんど知られていない名前かもしれませんが、60年代から80年代にかけて、ジャズ系の雑誌を中心に精力的にフリージャズや即興音楽といった新しい音楽を紹介し(そう、信じられないかもしれませんが、その昔、ジャズの雑誌が新しい音楽を紹介していた時期があったのです…今はその面影すらありませんが)優れた批評を数多く残した方です。最近では青山真治監督作品『AA』に出演されていたので、その姿を見た方も多いかもしれません(写真はその映画からです)。

60年代オーネットコールマンやアイラーといった人たちの情報は清水先生か、あるいは植草甚一から得た人が多かったのではなかろうか。最初にオーネットを日本に紹介した人と言えばわかりやすいかもしれない。70年代にはいるといわずもがな間章、高柳昌行、副島輝人等群雄割拠の評論家、音楽家、オーガナイザー達がが精力的に文章を発表する中で、清水先生の硬質な決して浮かれることのない文章は、その詩的な表現とともに非常に独特のポジションと輝きを放っていました。

70年代のフリージャズムーブメントが失速する80年代にはいっても清水先生の文章は衰えをみせず、わたし自身は、ジョンゾーンをはじめとするNYの新しいシーンの様子の多くは清水先生や副島さんの文章や、実際に直接お会いして聴く情報から多くを得ていました。今のようなインターネットの時代でもないし、CDの時代でもありません。こうした人たちのもたらしてくれる情報や鋭い批評、視点は、苦労して手に入れたアナログ盤とともに宝物のようにわたしの中で輝いていましたし、それは今でも血や肉となって、わたしのなかに生きています。

先生をはじめ、フリージャズを最初に紹介した世代の方たちは、実に良く現場に足を運んでいました。なにか面白そうなコンサートの会場では、清水先生、副島さん、殿山泰司さん…といった顔を大抵見ることが出来たし、ペンをとらなくなったこの10年間も、清水先生は恐ろしいほどの精力でコンサート会場に現れました。今日に至るまで、わたしのライブを一番多くみてくれた評論家は間違いなく清水先生です。doubtmusicの沼田くんも書いてましたが、晩年はキャロサンプの野田っちや、月光茶房の原田さんが、体の不自由になった先生の面倒をマメにみていて、コンサート会場にもつきそっていました(野田っちはああ見えて、実はやさしいやつなのだ…なんてことを書くとあとでぶつぶつ言われそうだな…笑、でも彼は本当に先生の面倒をよく見ていたのだ)。

恐らく先生が最後に見たライブは2年前の1月にPITINNでやったONJOのライブだったと思う。会場には先生とも親しい札幌のオーガナイザーNMAの沼山さんもいて、終演後はみなで談笑をしたのを覚えている。これが先生とお会いした最後になってしまった。先生ははじまったばかりのONJOの音楽を本当によろこんでくれていて、わたしには恐れ多いくらいのお褒めの言葉もいただいた。高柳さんのまわりをうろちょろしていた生意気ではねっかえりの小僧だったころからわたしのことを知っていただけに、感慨深かったのかもしれないけど、でも、それだけではなく、その言葉はお世辞ではなかったと思う。あのとき、わたしは、はじめて清水先生をうならせるような演奏をした…そう自分では思っているのだ。そんなこともあって、そのときに作ったアルバム『Out to Lunch』は清水先生に捧げた作品だったのだけど、すでに病院のベッドで深い眠りに入っていた先生には届かなかったかもしれない。

晩年は一緒にご飯を食べることも多かった。先生はご病気だったのに、驚くほどの量の酒を飲み、食事はつまむ程度、わたしはひたすらウーロン茶をのみながら、先生が注文する極上の美味いもんを食べた。ONJOのメンバー皆が寿司をご馳走になったこともある。先生のお気に入りはSachikoMで彼女の音楽のアイディアを聞くのを楽しみにしていた。公私ともに本当にお世話になった。いろいろな事情でわたし自身が厳しい立場に立たされたときには、先生の存在、言葉が心に染みた。わたしにとっては本当の意味で恩人だったのだ。非常に厳しいけれど、とても暖かい方だった。

これもご存知の方は多いと思うが先生は昭和初期のアバンギャルド詩人でもある。何年か前、このへんの貴重な雑誌が大量に古本屋に出たことがある。その多くは先生の作品のページだけが切り取られたいたという。この先はわたしの勝手な憶測になるけど、雑誌の出どこは多分先生だったと思う。お金に困っていた方ではないから、お金の為に売ったわけではないだろう。恐らくは貴重な資料ともいえるこの辺の雑誌を自分の死とともに消してはいけないと思ったのかもしれない。ただし自分の作品のページだけは全て破棄して。もしそうだとしたらそこにどんな思いがあったのだろうか。うっすらとわかるような気もするし、もしかしたら、それは、まったくのわたしの勘違いかもしれないし。

心からご冥福をお祈りいたします。どうか現世のしがらみのないあの世で安らかにあられますように。

大友良英


 心はどんな働きをするのであろうか。心は思考し、信じ、疑い、覚知し、推論し、意志するといわれる。これらの活動、あるいは「作用」は心によるか、あるいは心の中にある。ジョン・ロックによれば、われわれは「自分自身」の中にこれらの「自分自身の心の働き」を認めるのであり、こうして思考、疑惑、想起、信念等々が何であるかを学ぶのである。われわれの内におけるそれらの働きを観察することから、われわれはそれらの働きの観念を理解するのである。ロックはこの観念の源泉を「内省」と呼ぶ。というのは「この内省の与える観念は、心が自らの内におけるそれ自身の作用を内省することによって得られるような観念だけであるからである」。おそらく、それを「内観」すなわち内への観察と呼ぶほうがもっと適切であろう。
 しかし、生きており、身体をもつ人間であるわれわれは、われわれの心的なものの概念を内観によってのみ獲得しうるという仮説をくつがえさなくてはならない。ウィトゲンシュタインは『哲学探究』の中でこのことをなしとげ、それにより彼は心の哲学にもっとも偉大な一つの貢献をしている。
 ウィトゲンシュタインの用いた方策は、なにか特別な心的現象がおきている時、実際に起きることを綿密に研究することをわれわれに奨めることである。たとえば、あなたは車の鍵の置いた場所を思い出そうとしており、そして突然思い出す。あるいは、図面の読み方に当惑しており、そして突然それを理解する。あるいは、あなたはボート遊びをするか、庭の手入れをするかと躊躇しており、そして突然に決定する。突然の想起、理解、決定は心的な出来事である。それらはある瞬間の生起である。
 もしかりに、内観が決定、理解、等々が何であるかをわれわれに教えるという仮説が正しいとしたら、決定や理解の瞬間にすべての附随現象から決定や理解の出来事をとりだせることが本当でなければならないだろう。しかし、われわれはこのようにできうるだろうか。ウィトゲンシュタインは次の例を考えるように勧める。

 Aは一つの数列を書き出している。Bは彼を見ていて、数の系列の中に法則を見つけようと努力している。それがうまくいくと、彼は「いまやわたしは続けていける!」と叫ぶ。―――すると、この能力、この理解は、何か一瞬のうちに生ずるものなのだ。だから、そこで生じたことが何であるのか、注意してみよう。―――Aは1、5、11、19、29という数を書きつけた。そこでBは、いまやその先を知っている、と言う。そこでは何が起こったのか。さまざまなことが起こりえたであろう。たとえば、Aがゆっくり数を書きつらねている間、Bはさまざまな代数式を書き出された数にあてはめようと懸命になっている。Aが19という数を書いたとき、Bはan=n二乗+n-1なる式をためしてみた。すると、直後の数が彼の仮説を確証した。
 しかし彼の場合、Bは式のことを考えていない。彼はある種の緊張感とともに、Aがどのように数を書きつけているかを見守る。そのとき、彼の頭には雑多な、はっきりしない考えが交差する。最後に彼は「項差の数列はとうなるか」と自問する。彼は4、6、8、10なることを見出し、いまや先をつづけることができると言う。
 あるいは、彼はちらと見て、「あ、この数列なら知っている」と言い――先を続けていく。Aが1、3、5、7、9なる数列を書きつけたなら、おそらくそうもしたであろうように。――あるいは、彼は一言も発せず、ただ数列を書き続けていく。おそらく彼は「そんなのはやさしい!」と言いうる感じをもったであろう。(そのような感じは、たとえば、少しばかり驚いたときのように、軽く早く息を吸い込むような感じになる)。

 さて、もし突然の理解とは何であるかと問うならば、その答えの本質はBが公式について考えたことではないのは明らかである。というのは、ウィトゲンシュタインによれば「彼が公式を考えついたとしても、なお理解していないと想像することが完全にできるからである」。公式の使い方を知らなくても公式を公言することも、思いつくこともできるだろう。Bの突然の理解の本質は、その数列の次のいくつかの数を考えることだという答でもなかろうし、突然の理解の本質はそれらの数を書くことだという答でもなかろう。というのは、偶然に初めのニ、三の数字を正しくみつけながら数列を理解できない人もあるからである。また突然の理解の本質は緊張からの突然の解放でもなかろう、等々である。われわれは、ウィトゲンシュタインが突然の理解に伴う「特徴的な随伴現象」と呼んだこれらの現象のどれもが理解ではないことを知る。われわれは、理解の瞬間に起きている何か――それが理解なのであるが――を的確に指摘しえない。理解それ自体は、選びだしたり注意したりすることのできるものではないのだ。

 菊地雅章のこの「大気」の音楽からは、ニーチェ的大気を感じとることができるように思われる。一般に、物質的な想像力にとって、大気のもっとも明瞭な実体的な性質は何だろうか。それは匂いである。ある種の物質的想像力にとっては、大気とは何よりも匂いを運ぶ台である。シェリーのような人たちはしばしば、香りのよい燃臭性の香水を想うように大気の純粋さを夢想する。ところがニーチェは空中に冷やかさと空虚の緊張感しか夢想しない。
 ニーチェがしばしば誇った臭覚は情趣あるものではない。それは少しでも不純な兆しに対しおのが身を遠ざけるために超人に与えられる。ニーチェ的人間は匂いのなかで自適することができない。ボードレールやノァーユ伯爵夫人――二人はいずれも地上的人間であり、もちろんそれはまた別の偉さがあるしるしではあるが――は匂いについて夢想し瞑想する。匂いはそのとき無限の共鳴をもつ。それは追憶を欲望に結びつけ、遠い過去を、遥かな未だ言葉をもたぬ未来に結びつける。ところが逆にニーチェは、

  未来もなく、追憶もなく
  鼻孔を湯呑み茶碗のようにふくらませ
  もっとも純粋な大気を呼吸する・・・*

 純粋な大気は自由な瞬間の意識であり、未来を開く瞬間の意識である。それ以上の何ものでもない。匂いは感覚に感じられる一つの繋がりであって、それは匂いの本体自身のうちに連続性をもっている。不連続な匂いというものはない。逆に純粋な大気とは若さと新しさの感じである。われわれはそれを新たな空虚、新たな自由といいなおそう。けだしこの新たな大気にはエクゾチックなもの、恍惚たるもの、陶酔させるものが全くないからである。その気候は純粋な、乾燥した、冷やかな、空虚な大気でつくられているのだ。

  ――私はそこに座って、もっともよい空気を吸った。
  ほんとうに天国の空気を
  明るくて軽くて金の縞の入った
  月からいつか降ってきたかと思われるほど
  おいしい空気を・・・*

 大気がひとときの休息とくつろぎを象徴するとすれば、それはまた真近な行動の意識、つみかさなった意志からわれわれを解放する行動の意識を与える。したがって、純粋な空気を呼吸する単純な悦びのなかには、何か力を期待させるものがある。

  大気は期待にみちみちている
  私は私の上を未知の唇の吐息が通り過ぎてゆくのを感じる
  ――いまや大いなる爽やかさがやって来るのだ・・・*
 この不意に訪れた爽やかな状態にあっては、未知の唇が陶酔の約束でないことをこれ以上たくみにいえるであろうか。事実ニーチェにとって、大気の強勢的な真の特質、呼吸する悦びをもたらす特質、不動の大気を力動化する特質――力動的想像力の生命そのものである深さにおける真の力動化――それはこの爽やかさなのだ。

明るい水
春の水と流れる水
ナルシスの神話
水のなかに凝視されたイマ-ジュは
まったく視覚的な愛撫が輪郭をもたらしたものとして現われる
黄色い花は水晶に似た静けさに映る
愛する水
深い水━━眠っている水
エドガ一・ポーの夢想における「重い水」
オフィーリアのコンプレックス
複合的な水
水はなんと多くの実体を同化することだろう
なんと多くのエッセンスを自分に引き寄せることだろう
母性の水と女性の水
これら穏やかな水と午前の柔らかい孤独に心が溢れ出すものは
すべて乳である
純粋性と浄化
水の論理
心が欲望するすべてのものは、つねに水の形象に還元され得る
優しい水の覇権
自然な夢想は
優しい水、さわやかにして渇きをいやす水への特権をつねに守りつづけるだろう
そして、水のことばがある
「ぼくは川の流れをヴァイオリンのように持つ」
とポール・エリュアールは歌っている
水の根元的な歌は万物の内面で鳴っている
想像力が物の音楽に波調が合ったとき
イマージュが真に話しはじめるのだ

 風のすべての段階はそれぞれ独自の心理学を持っている。風は興奮し、落胆する。叫び、そして哀訴する。それは狂暴から悲嘆へと移行する。物にぶつかって無用なものとなった風の息の性格そのものが、うちひしがれたメランコリーとは違った不安のメランコリーのイマージュを生みだすことがある。このニュアンスはガブリエル・ダヌンツィオの文章にみられるだろう。《そして風はもはやなきものを懐しむ心のようなもの、思い出にみたされ、前兆でふくれ、引きさかれたたましいと無用な翼でできた風は、まだ形をなさぬ被造物の不安のようなものであった》。
 激越な、苦悩にみちた生の同じ印象が、サン=ポル・ルーが『風の神秘』に捧げた唱句のなかにも見出されるだろう。完全に整わぬがゆえに、過度に宇宙的な状態のなかで、詩人は「大地」の夢から風を生じさせる。《未来に対する欲望かまた思い出への愛惜が、「地球」という巨大な頭蓋骨のどこかに目ざめたときーー風が起こる》。つづいて、あたかも大地の夢が逆の方向への息吹となって動きまわらねばならないかのように、詩人は風のあらゆる分離反目を喚起する。《天空は、待機しているか、あるいはそのさまざまな運動が枝や帆や雲を想起させる物質のなかに、永久に追放された散乱したたましいでできている》。このブルターニュの詩人にとっては、各々の大気の息吹きが生気をもつ。それは、かつて生きていた大気の切れはしであり、たましいを包もうとしている空の布地である。いま一人のブルターニュ人ギレヴィクは、これらの印象の詩的核心に見事に限定された詩で、次のように書いている。

風の中に
誰かがいる

 菊地雅章は大地を歌う。「大地と意志の夢想」について、「大地と休息の夢想」について。流動的で可変的な火、水、空気に反して、大地は堅固で抵抗を予測させる。が、同時にゆるぎのない休息を与える物質として立ち現われる。そこでは想像力は二つの極、つまり外向性と内向性の極の上ではたらく。

  「大地と意志の夢想」では、彼は外向性をとりあげ、「硬い」と「軟らかい」という弁証法的関係から出発する。われわれは聴く。ほとんど途切れることなく、規則的に脈打つ大地のやわらかな鼓動と、それに襲いかかるような、金属的な擦過音の強烈なシャワーとの対比と統合を。火、水、空気は敵意のイマージュを持ちうるとしても、大地の強固な敵意ほど明らかではない。したがって、彼は「抵抗する世界」とは何か、からはじめるのだ。つづいて大地の粘土――原初的な物質のイマージュ、堅固性のイマージュ、鋳造、岩、化石、鉱物のイマージュ、最後には重力の心理学にまで言及する。そそり立つ岸壁、黒い岩肌。雲は夜の乳房をことごとく覆いつくす。静かな風が石のなだれのなかにある。風はそこにある。大地を噛んだものは、歯の間にその味わいをのこしている。詩的イマージュを生きることは、生成を認識することだ。われわれが大地的実体から物質的なイマージュをつくりあげる際に、われわれの裡に目覚める力動作用。そこに、われわれは精神のエッセンス、創造の真実、つまり精神=リズムの現存を感じとリ、理解する。そしてリズムは、自らと不何分なサウンドを駆リ立てる。

 短い休止を置いて、彼は、「大地と休息の夢想」を内向性の展望の下にとらえる。ここでは事物の内奥にまで、いわば内密性において想像する、物質的想像力のあくなき浸透力が物語られる。と同時に、内部への夢想が、守られた休息のイマージュを喚起するという点が巨細に示されている。ここでは大地、家、母、ヨナの神話のイマージュがもつ幸福な様相は、空間の詩学の、あの無限にゆたかな幸福のイマージュのいわば先駆として考えられるだろう。甘美な内密性の在り様。この開かれた薔薇の内部の湖のなかに、なんという空が、そこに姿を映しているか。大地は海綿が水を吸うようにゆっくりとその色を呑んでいる。大地は丸みをおび、厚くなり、その均衡をとり戻し、われわれの足の下の空間において震動する。それはあるときは調子のよい韻律のようなリズムで、あるときは自由の終りのように、周期的ではないが、適切ないくつかの主題提示部を流す長いメロディーの一節になる。

 菊地雅章の詩的イマージュを聴きとるためにじっくりと時間をかけてみるならば、それらのイマージュ群には驚くほど豊饒な生命が宿されていて、沈黙した声がしだいに力強く語りかけてくるのにわれわれは気づくだろう。そして最後に、長い休止を置いて、彼は、夢幻的生にヒリオッドをうつ脳髄の曙をわれわれに体験させるのだ。(清水俊彦)

0 件のコメント: