2008年6月16日月曜日

南柯書局についての記録

一考 南柯の夢 2005年11月10日(木)22時43分33秒(despera掲示板より転写)

 南柯書局が出版社として何年つづいたかは定かでない。コーベブックス在籍中にすでに南柯書局の号を用いているし、この十五年ほどは南柯書局名義での出版はしていないものの、いろんな出版社の企画や編集などを手伝っている。コーベブックス、南柯書局、雪華社、読売新聞社、研文社等々、職を転々としているが、それらは私のなかではひと続きになっていて、どこからどこまでが某社といった割り振りはできない。名刺の肩書きで仕事をしたことがないので、なおさらである。少しく消息を述べれば、折々の名刺に役職名は刷り込まない。著者と編集者との間柄は私のような流れ編集者にとってはなおさら個人的なものである。原稿を取ってくるのは私なのであって出版社ではない。従って責任は個人に在するのであって、仕事の場に逃げ道は無用である。
 いずれにせよ、どこで働いていようと南柯書局というプライベート・プレスは常に機能していた。南柯書局は私の頭のなかに棲みついた編集局のようなものであった。それ故、転職のたびに手持ちの企画のなかから、相応しかろうと思うものを上梓してきた。雪華社のときの中井英夫、山崎剛太郎、三枝和子、小高根二郎、杉本秀太郎、三好郁朗、岩崎力各氏の著訳書。研文社のときの日夏耿之介、森銑三各氏のエッセイ集がそれである。そして雪華社解散の折りは、編集中だった十数冊の出版を小沢書店、筑摩書房、岩波書店等々で肩代わりしていただいた。
 編集を生業としたのはコーベブックスが最初である。昭和四十七年の入社だが、出版部があったのは昭和四十九年八月から昭和五十二年七月までのわずか三年、その間に六十六点の書冊を上梓している。最初が岡田夏彦さんの『運命の書』であり、最後が須永朝彦さんの『硝子の繭』だった。詳細を著せられればいいのだが、自分で編集ないし出版した本を私はほとんど持っていない。過ぎ去ったことになんの興味も抱かれないからである。ひとは時代の渦中を生きる、言い換えれば刹那を生きるのであって、刻々と過去へと移り過ぎてゆく現在にしか興味は抱かれない。従って、過去の為事など、私にとってはどうでもよいのである。この「どうでもよい」との感慨は日々強くなる。それが今日への好奇心の旺盛さからなのか、年齢のせいなのかはよく分からないでいる。老いに比例してアクティブさが弥増る、そのような馬鹿がひとりぐらい居てもよいと思っている。
 『運命の書』はさて置いて、コーベブックスで拵えた書冊のほとんどは限定本である。販路が東京しかなく、東京以外の地で出版が成り立たないのを承知で、神戸で出版を営むのである。生き残りを考えれば、畢竟するに部数を限るしかない。その変わり、原材料は贅を尽した。尽したと言うよりは、豪奢な材料を用いて一部のマニアの方に経営の基部になっていただこうと願ったのである。この件も、より正確に言葉を補足しておきたい。私の為事を肯定するにせよ、否定するにせよ、いつも付きまとうのが趣味性である。それを私は苦々しく思ってきた。生き残りを賭けての限定本だったのであって、趣味で限定本を拵えたのではない。
 私が恋したのは文学であって、書物ではない。この書物と文学との関係はデカルトのいう属性、物体と精神という二実体の属性をそれぞれ広がりと意識と見るようなものなのだが、先哲の意見をそのまま採り入れようとすると、やはり無理がある。文学はメディアを必要とするが、メディアは文学ではない。そして、書物はメディアの一形態でしかない。凸版印刷機の原型が開発されたのは一四四五年頃だが、それが多く書物に用いられるようになったのは一八00年代に入ってからで、さらにオフセット印刷が石版印刷に取って代わるのは一九0三年のことである。たかだか二百年の歴史しか持たない書物を文学と同等視するわけにはいかないのである。平版印刷、凹版印刷、孔版印刷についてはここでは触れない、はなしが煩雑になるからである。
 装いがどうでもよいとは思わないが、装いはどこまで行っても装いでしかない。私は装丁をパッケージデザインだと思っている。謂わば、商品を売るための媚(販売促進)の部分に属するわけで、それで中味の質が変わるわけではない。そして今、パソコンの急速な伝搬によってメディアが大きく変わろうとしている。不物好きの謗となろうとも、好奇心強く、新奇なことを好む私のような輩にはこのような端境期が相応しい。

 ところで、私は編集者としては素人である。装幀家、蔵書家、書誌学者といってくださる親切なひとがたまにいらっしゃるが、大学の研究室やしかるべき研究機関の書誌学の講座などとは無縁で、義務教育しか終えていない。その私を救ってくださったのが、懇意にしていた人文書院の小林ひろ子さんである。紙の種類から箱、表紙、見返しの取り方、紙の目の読み方から口目、または紙の裏表からサイズ剤や中性紙に至る知識まで、小林さんはなにも知らない私に書物制作の基本を教えてくださった。いい機会だから、書いておきたいのだが、私は子供の頃から口先だけの人間で、才能とか実績の持ち合わせはなにもない。製本や印刷の段取りはおろか、活字の大きさも校正記号も解さないずぶの素人である。それが突然、手漉き和紙を用いて書物を造ると言い出したのである。小林さんのご協力がなければ不可能だったのは言うまでもないが、人文書院のみなさんはさぞかし呆れ返られたことと思う。出版に自信などはなからなかった、上梓に至らなければ至らなかったで仕方ない、私の生活そのものがそのような危険な賭けの繰り返しだった。割り切っていたのではなく、私の無責任さがそうさせたのだと思っている。
 人文書院から最初に紹介していただいたのが、仏光寺高倉の森田和紙である。毎日新聞社の『手漉和紙大鑑』や『手漉和紙』の残紙を大量に頒けていただいたのが昭和四十八年の初冬。印刷所の前の往来へ和紙を拡げ、一枚ずつマイクロメーターで計って全体を五山ほどに取り分ける。組版の面と印刷機の胴とのあいだを紙が流れて行くのだが、その胴に薄紙を巻き付けて印刷の圧の微調整を取る。ところが、手漉和紙は厚みにばらつきがある、それで前述のような作業が必要になるのである。手漉和紙に固有の耳を生かすためにトンボは入れられない、そんな状態で本文の二色刷、限定番号の活版刷り等の刷り合わせをうるさく言うのだから、職人は全神経を注ぎ込まざるを得ない。現在では突き返されるであろう難儀の果てに南柯書局の本はかたちを整えて行った。
 自分のことを「物数奇」と前記したが、一方でセナンクールも重々理解できる。みなさんがしばしば引用なさる「人間は所詮滅びるかもしれず、残されたものは虚無だけかもしれない。しかし抵抗しながら滅びようではないか」である。1970年代、書物の世界から手漉和紙と活版印刷は駆逐されつつあった。平井功や日夏耿之介が見た夢にひとつの形を与えるラストチャンスと私には思えたのである。そしてその最後の機会こそが、私の抗いであり、情念や怨恨とのクリンチではなかったかと、そう想い起こす。
 前述した限定番号の活版刷り、これも『游牧記』の平井功に準拠した。一番から終番まで順に活字を差し替えてゆくのだが、手差しの印刷機では版面が荒れる、ドイツ製の高価な印刷機がオーバーヒートして煙を吹き出すのは序の口、全頁共紙の多色刷りを前に、職人が途方に暮れる日々が繰り返された。須永朝彦さんと一緒に造った久生十蘭訳『ファントマ』の地を見ていただきたい。私がかかわった書物の組付けは天地が逆になっている。天を化粧裁ちにし、地を成り行きにまかせている。この当たり前の印刷が東京では通用しない、関東と関西では組版の天地が逆になっている。埃は天に溜るのである、かつての岩波文庫などは印刷文化に対する汚辱であり冒涜でしかない。
 話ついでに、用紙についてひとこと。澁澤龍彦さんの『神聖受胎』の見返しにはアート紙系の紙が用いられています。それが理由で、貼り見返しと遊び見返しとが喉でくっついてしまった本をよく見掛ける。アート紙やコート紙によく見られる症状で、湿気に弱い紙を見返しに用いてはならない。それでなくても、アート紙やコート紙は柔軟さがなく、折り目を加えると、そこから紙は千切れて行く。ますますもって見返しには不向きな紙ということになる。印刷効果を考慮しての選択なのだろうが、見返しに絵画を刷り込むに際し、そのような紙を用いれば最悪の結果をもたらす。戦前はオランダの木炭紙と共に舶載の紙として重宝がられ、堀辰雄の限定本などにも使われたが、時を経れば惨憺たる有様になる。
 他に絵描きがかかわった悪例として版画用紙に施される礬水(どうさ)引きがある。墨・インキ・絵の具などのにじみ止めや和紙の毛羽立ちを抑えるために使用されるが、礬水の原材料は膠(にかわ)と明礬(みょうばん)の混和液。従って、礬水を引くことによって、せっかくの和紙が酸性紙に化けてしまう。日夏耿之介の『定本詩集』の挿絵に用いられた長谷川潔の版画などは礬水が強く、絵の具はみごとに止まっているものの、湿気による滲みがひどくて、目も当てられない。礬水引きをやめて雁皮紙刷りにしていただきたかったと思う。どうやら、絵描きが装丁に携わると碌でもない結果になるようである。
 それと糸縢りがなくなったのも大きな問題である。昨今の出版物は網代綴じか無線綴じになってしまった。網代綴じは折り工程で本の背に切れ込みを入れて接着剤でとじる方法、無線綴じは背をまるごと接着剤で固める方法。繰り返し繙けば早晩、書物はばらばらになってしまう。共に再製本は不可能で、謂わば使い捨ての本と言えよう。この使い捨ての書物に装いを凝らす装丁がまた、私には理解できない。装丁に費やす金数があれば、それを糸縢りに使っていただきたいと思うのである。
 次に活字のはなしを少々。南柯書局で拵えた本はすべて活版印刷を用いた。特に活版にこだわったのではなく、手漉和紙同様、書物に利用するに、最後の機会ではないかと考えたのである。花柳界で育ったがゆえに、滅び行くものへの嗜み、消え行くものへの共感や憧憬が子供のころから根付いていたのだと思う。過去形のものには興味がないが、いま消え去ろうとしているものには手を貸したくなる、というよりも、足を引っ張りたくなる。いやはや、難儀な性格である。
 当時は日活、元活、精興社などの活字が主流だった。精興社の書体は写植のそれに近く縦横の肉が細い、すなわちシャープでモダンなのですが、それが私には気に入らない。日活や元活の書体は縦側の肉が太く、謂わば太り肉(ふとりじし)の活字で、矢野目源一の名訳「ふともも町の角屋敷 こんもり茂った植込に弁天様が鎮座まします」を思い起こさせる。肉厚がある分、紙にくっきりとめり込むように印刷される、その触感が私に堪らない懽楽をもたらしたのである。
 著された原稿や作者の想いに一つの形を与えるのが装丁である。配された文字の大きさとバランス、色や紋様、あるいは素材の風合いや感触が中身と照応しあうとき、美しい書物が誕生する。それはそれで結構なのだが、どうやら手漉和紙に魅せられたあたりから、ヤオヨロズの貧乏神に追い立てられる生活がはじまったようである。「読み手をどこかへ連れていくような物語の楽しさ」とよく言うが、楽しいのは読者だけであって、版元が楽しかろう筈がない。すでにレールの敷かれた出版社の一員として働くのであればともかく、プライベート・プレスに春は永遠にやって来ない。六0年代、七0年代に異常発生したプライベート・プレスは八五年を境にほぼ途絶する。「プラザ合意」以降の経済不況が関係したかどうかを知らないが、「文字通りな異端の者ゆえの蹉跌に埋もれていった」出版社が復興したとのはなしは打ち絶えて聞かない。パッケージデザインの達人には成り果せたかもしれない、しかしながら、いま顧みて、出版とは金銭との格闘だったと嘯きたくもなる。

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