2010年4月29日木曜日

音楽 : あがた森魚-永遠の遠国




永遠の遠国
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[監編著訳] あがた森魚(著者) 
[発行所] 永遠製菓 
[発行年] 1986年
[構成数] 1冊
[サイズ] LPサイズ(12inch)BOX 天地330×左右330mm
[コメント] 北海道で生まれ上京後、斉藤哲夫、野澤享司、鈴木慶一らと親交を深めつつ、中津川フォークジャンボリーや春一番コンサートに出演し、1972年に純愛ラブソング「赤色エレジー」でデビューし、フォーク・ロックやヒッピームーブメントに影響を受けながらも、大正や昭和のロマンを感じさせるオリジナリティあふれる幻想的な作品で知られるあがた森魚(1948-)が、1977年から制作に8年の歳月をかけ、500限定で(当時25000円で販売)の自主製作盤として完成した超大作『永遠の遠国』。20世紀をコラージュした特別付録の『廿世紀少年讀本』など、単体としてもかなりのボリュームと内容で、細野晴臣・鈴木慶一・友部正人・鈴木扇二らをはじめ参加・協力も豪華。

[目次・構成・収録内容(抜粋)]
永遠製菓LP:AAE-1001 キャラメルセット
A1 いとしの第六惑星 作詞・作曲・編曲:あがた森魚
A2 天然色予報 作曲:あがた森魚/編曲:Moon Riders
A3 山と渓谷 作詞・作曲:あがた森魚/編曲:Moon RIders
A4 誰も僕の絵を描けないだろう 作詞・作曲:友部正人/編曲:鈴木慶一
B1 仁丹塔の歌 作詞:田中正志/作曲:あがた森魚/編曲:渡辺勝
B2 オフィーリア ツナイト 作詞:田中正志/作曲:あがた森魚/編曲:渡辺勝
B3 ペンギン背広しろくま背白 作詞・作曲:あがた森魚/編曲:渡辺勝
B4 ひとさらいの唄 作詞・作曲:鈴木翁二/編曲:かしぶち哲郎
B5 お前はひな菊 作詞・作曲:早川義夫/編曲:かしぶち哲郎

シガレットセット
C1 淋しいエスキモウの様に 作詞・作曲:あがた森魚/編曲:細野晴臣
C2 ルージュのワルツ 作曲:あがた森魚/編曲:細野晴臣
C3 春の嵐の夜の手品師 作詞・作曲:あがた森魚/編曲:渡辺勝
D1 仁丹塔の歌 作詞:田中正志 作曲:あがた森魚/編曲:渡辺勝
D2 オフィーリア ツナイト 作詞:田中正志/作曲:あがた森魚/編曲:渡辺勝
D3 モンターギュ家最後の日 作詞・作曲:あがた森魚/編曲:Moon RIders
D4 金魚鉢の中のハムレット 作詞・作曲:あがた森魚/編曲:岡田徹、武川雅寛
D5 永遠の遠国の歌 作詞・作曲:あがた森魚/編曲:細野晴臣

チョコレットセット 詞:稲垣足穂「星澄む郷」より/作曲:あがた森魚/編曲:ライオンメリイ
E1 組曲「スターカッスル星の夜の爆発」
PART I お伽劇の映画で観たようにラジオから・・・
PART II ただ折ふし夢の中でのみ覗き得るもの
PART III 麓のステーションからアプト式の汽車に乗って
PART IV メロ僧正のお伽の広間の懸幕に似た星空
PART V 広島市民球場のくずれた溶鉱炉
PART VI そしてまた遠国の諸候の領地に・・・
F1 水晶になりたい 作詞・作曲:あがた森魚/編曲:ライオン・メリイ
F2 スターカッスル星の夜の爆発 詞:稲垣足穂「星澄む郷」より/作曲:あがた森魚/編曲:ライオン・メリイ
F3 象ねずみの校庭 作詞・作曲:あがた森魚/編曲:ライオン・メリイ
F4 ニジンスキーササン朝ペルシアに踊る 作詞・作曲:あがた森魚/編曲:ライオン・メリイ
F5 海と百合のアリア 作曲:J.S.Bach/編曲:ライオン・メリイ

特別付録『廿世紀少年讀本』
執筆:あがた森魚
編集:あがた森魚・堀込多津子
意匠:海野幸裕・小中功
発行:永遠製菓
発行日:1986年8月31日 二刷
100ページ
カバー付

書籍 : 瀧口修造-超現実主義と絵画(ブルトン)

書籍 : 瀧口修造-物質のまなざし



『物質のまなざし』
詩・アントニ・タピエス 画・瀧口修造
1975年 ポリグラファ社(バルセロナ)
44×31・
98ページ(箱入り)
Material Glance
1966年 20ページ Galerie de France: Paris 22x25cm

 この本に使用されているカタロニア産手漉包装紙は、瀧口修造の示唆によりアントニ・タピエスがスペインで探したもの。物質感の強いこの手漉包装紙に、タピエスのリトグラフ、しの竹を削って作った筆で書かれた瀧口の自筆テクストが刷り込まれている。瀧口が自筆のテクストを刷り込むということはあまり例がないが、手書きの感覚を残すことで“書くこと”と“描くこと”の境界を曖昧にしようとしたのだろうか。タピエスのオリジナル版画は別刷りとして、さらに大きな寸法のアルシュ紙、リーヴ紙、グアロ紙にも刷られた。発行当時、瀧口72歳、タピエス52歳。
 1958年、瀧口はヴェニス・ヴィエンナーレの日本代表及び審査員として渡欧し、欧州各国を巡った際、スペインでタピエス宅に滞在した。後に瀧口は、タピエスを「意外なミロの後継者を見いだした」(『みずゑ』1961年9月)と評する。この詩画集の発行元であるポリグラファ社は、瀧口とミロの最初の詩画集『手づくり諺』を手がけた出版社であり、社長のジュワン・ド・ムガは、カタロニヤ地方における前衛芸術家のパトロンとして代々有名な一族の代表者であった。

 「夜あけが未知のもののようにやってくる。絶えずあたらしい運命の合図のように。裏切られても、性懲りもなく。
 ひとつの点、そんな、形を超えたものが、この手で掴めると思われる、なんともすがすがしい瞬間がある。
 幻覚などと軽々しく言うなかれ。むしろ目くらむほど遠い記憶の回生、いまはほとんど磨り減ってしまった体験がふと蘇るのではないか。
 たとえば、文字をかく、絵をかくという、いまはよそよそしく分離してしまい、しかつめらしいもの織りのとりこになっている人間の行為がある。
 この地上の国境のように、そらぞらしいものになってしまったもの。距離の感覚も、人を惑わす。
 沈黙すら量ることを知らぬ火星よ、きみもこの尺度のとりこにならぬよういのる。
地上では、埃やぼろ切れさえ、いまは生まれつきの純潔さを失う。
 アントニ タピエスよ、けさ、どこからともなく、ふと浮かんだこんな断層も、きみの仕事と一緒に、カタルーニャの土地から訪れてきたのだと思いたい。ありうることだ。
 きみは自分の手型、足型を、星の指紋、風邪の眼、壁の声に同化させるだろう。とても独特だ。
 その仕事、それは古来、宇宙のあらゆる元素と親しんで、話し合ってきた人たちと同じ道すがら生まれたもの。
 この土地、この住まい、この扉、この椅子、すべては元素をわかち合う。そして星がいま、あそこにまばたき、現存していると見えるように、きみの扉や壁、そして土埃がよく見える。とても独特だ。
 動詞という烙印、タピエス。」

瀧口修造 「アントニ タピエスと/に」 『タピエス展図録』(西武美術館 1976年8月)より

書籍 : 瀧口修造-妖精の距離




『妖精の距離』 詩・瀧口修造 画・阿部芳文[安部展也]
1937年10月15日 春鳥會  31×25・  16枚

 瀧口修造にとって初の詩画集であり、戦前唯一の日本シュルレアリスムの詩画集である『妖精の距離』は、西脇順三郎によって「シュルレアリストとしての純粋の代表的の傑作だと思う」(『瀧口修造の芸術』1974年)と評されている。
 この詩集は、阿部展也の手による12枚のデッサンから受けたインスピレーションをもとに、瀧口が詩を付けるというかたちで制作された。発行当時、瀧口34歳、阿部24歳。
 阿部は後に「この前後が画家らしい私の出発点ではなかったかと思う。」(自画像 『美術手帖』1951年12月)と回想しており、彼のシュルレアリスム画家としての出発点ともなる。
 瀧口と阿部は「アヴァンギャルド芸術家クラブ」(1936年)と「前衛写真研究会」(1938年)を共に結成した仲間であり、この『妖精の距離』が発刊されたのも、「アヴァンギャルド芸術家クラブ」結成の翌年のことであった。瀧口は1951年に開設された「タケミヤ画廊」から、企画展の作家選考一切を任されることになるが、これは阿部らの推薦によるものであった。ちなみに「タケミヤ画廊」で開催された第1回目の展覧会は「阿部展也展」である。

 「私の内部には、永ひあいだ、卵のやうに絶えず温められてゐた妙な思想があった。さう、それは全く思想といふより、ほかに言ひようのない、だが卵のようなものであった。ただ貝殻の中に小石が形づくられてしまつたやうに、いま一冊の詩画集『妖精の距離』が、阿部芳文君とのあひだに作られたことはたのしい。すべて夢想といふものは卵のように名状すべからざる形をしてゐたのである。かつては、花と鳥たちとが容易に結ばれたことを思ひ起こすまでもない。今は詩はその余白を、絵画はその余白を孤独ならさらに巨大なブランクに曝してゐる。
 『妖精の距離』の第三の余白は読者のやさしい手の中に委ねられてゐるばかりである。」
(『みづゑ』1937年11月)より

美術 : 赤瀬川原平

美術 : 野中ユリ(2)












美術 : 野中ユリ(1)